世界の宗教/宗教の世界  ひろさちや著

小乗仏教:「阿羅漢」といった低い目標を設定し、それを目指して修行する。

大乗仏教:目標の仏は無限の彼方にあって、到達不可能な目標である。

      そこで新たに「菩薩」という概念を持ちだした。

      「菩提薩埵(ぼだいさった)」の省略形。

 

●「菩薩」という概念・・・大乗仏教

 「悟り+衆生」の意があり、「悟りを求める人」「求道者」を意味する。

 我々凡夫のようにほんの一歩か二歩しか歩んでいない「菩薩」から「仏」までの間は

 無限の距離がある。

 この「無限」という数字のもとでは、一、二、百、兆といった数字に差はない。

 すべてが同等なのだ。

 だから、凡夫の初心者菩薩と、観音菩薩地蔵菩薩といった菩薩は

 全く同等の存在である。

 無限大の距離のもとではその差は問題にならない。

 すべてがゼロに等しいのであり、すべてが無限大に等しいのである。

 「あらゆる衆生がすべて同じ菩薩である」

 この考えこそ、大乗仏教の根本理念である。

 

●「菩薩」が歩む道は「中道」

 中道とは、「中途半端」ではない。

 激しい苦行と快楽に溺れた楽行と、そんな極端に偏することなく、

 ゆったりとした大道を歩むことである。

 それは、短距離を走るランナーであってはならない。

 本質的に到達できない目標に向かって歩むのだから絶対に走ってはならない。

 ゆっくりと歩むべきだ。

 そして、われわれは目標を忘れるべきである。

 目標にこだわっていると目標に一歩でも近づくことが大事だと錯覚してしまう。

 そうではない。

 われわれが仏道を歩んでいる、その姿が「仏」である。

 曹洞宗の開祖「道元」が「正法眼蔵」の中で言っていることを例えると、

 次のようだ。

 仏の方から我々凡夫のために垂らされた一本のロープがある。

 そのロープをたぐり登るのが菩薩であるが、

 そのとき、菩薩は身と体とをすべて捨てきっていなければならない。

 そして、いま、そこで登っているロープそのものになりきるのだ。

 ロープそのものが仏の家だ。

 菩薩が仏の家にいる限りその人は仏である。

 だとすれば、ロープを登っているその姿こそが、仏の姿である。

 

●釈迦の言葉:

 過去を追うな。

 未来を願うな。

 過去はすでに捨てられた。

 未来はまだやってこない。

 だから現在の事柄を

 現在においてよく観察し、

 揺らぐことなく、動ずることなく、

 良く見極めて実践すべし。

 ただ今日なすべきことを熱心になせ。

 誰か明日の死のあることを知らん。

 ーマッジマ・ニカーヤー

 

孔子の考え

 「即今・当処・自己(そっこん・とうしょ・じこ)」

 「いま・ここ・わたし」が生きている。

 死なんてどうでもいいのです。

 死後のことは考えなくてもいい。

 死後のことは放っておけ!