叡智のひびき 天風師著

天風哲人 箴言註釈

箴言
天風教義の積極心というのは恒に心の平安を確保する事であるが、同時に如何なる場合にも寛容である事を忘れてはならない

箴言
何事を為すにも報償を超越してそれを自己の責務なりと思うて行う時、其行為は尊い

箴言
自分の心の中に何かの悩みがあるならば先づそれは「取越苦労」か或は「消極的思考」かの何れかである
故に入念に省察すべし

箴言
「思ひやり」という事を現実にするには先づ何を措いても相手方の気持になって考へて見る事である

箴言
一切の事柄をすべて感謝に考へられない人は完全に天風教義を実行して居る人とはいない

箴言
正しい愛情とはお互ひが活きて此世に存在して居るという厳粛なる事実を衷心ちゅうしんから尊敬し合うことから湧いて来る

箴言
何としても怒り悲み怖れを抑制する事の出来ない時は、そういう時こそクンバハカ密法の修練に最も都合のよい時であるから、一段と真剣に実行するがよい

箴言
不平や不満を口にする事を恥ずかしい事だと気がつく様になつたら、少なくとも自己統御が出来て来た証拠である

箴言
真理を践行するものはみだりに他人の批評を為す勿れである。否その閑ひまがあるならば自分自身を厳正に批判するがよい

箴言10
天風教義は是を修行として行ったのではおよそ第二義となる。只一念それを生活行事として行う時完全に第一義的のものとなる

箴言11
他人の言行を常に心の鏡として他人に対処するならそれで立派な交人態度が決定される

箴言12
どんな事を為すにも力と勇気と信念とを欠如してはいけないが、其場合「調和」という事を無視せぬ様心かけないと往々軌道を外れる

箴言13
活きる事の努力のみに追はれて生活の中の情味というものを味はないと人生はどんな場合にも真の活きかいというものを感じない

箴言14
自己の言行に飽くまで責任を負う覚悟のない人はかりそ めにも天風会員としての誇りを自から冒潰するものである

箴言15
苦を楽みに振かへる事の出来ない人は人のよろこびを吾が悦びに為し得ぬ人と同様で謂はゆる凡庸下俗の人である

明るく朗らかに、活き活きと、勇ましく、人生に活きていないがために、人生をいつも楽しからず、面白からずで活きている。

すなわち、この世を苦の娑婆だと思い込んで活きている。

そうして、そういう考え方で、人生に活きている人に限って、古い歌にある、

「おもしろき 事もなき世を おもしろくすみなすものは こころなりける」

などという、尊い人生消息などは、よしんば知ってはいても、これに実感的共鳴をもてない。

箴言16
清濁を併せ呑むという事の出来得ない人は広い世界を狭く活き、調和ある人生を知らず識らず不調和に陥れる人 である

二千年の昔、中国の儒聖じゅせいの言葉に「およそ安楽の要訣ようけつは、すべからく 人の一善を見て、その百非を忘れるに如くはなし しくはなし」というのがある。
また、西哲せいてつの言にも「できるだけ人のなすことをほめることにつと め、みだりに人を批判しないように心がけ、万一、人の失策を見出したら それを許すと同時に、忘れるようにしよう。そうすることで、汝の 人生のもっとも幸福の日が楽しめる」というのがある。

これは、いずれも人生を完全に活きるには、要するに、恒に清濁をあ わせ呑むにありということを調えている、尊い言葉である。

事実において、清濁をあわせ呑まない心でこの混沌たる人生に活きる と、自分の活きる人生世界が極めて狭いものになる。

そして、その上に、ことごとに不調和を感ずる場合が多くなって、しょせんは人生を知らず識らずの間に、不幸福なものにしてしまう。

箴言17
積極という事は余程注意を慎重にしないと得てして制約のない楽天主義になる

積極的精神とは、事あるも事なきときも、常にその心が、泰然不動の状態であるのをいうので、
要約すれば、何事があろうが、
たとえば、病難に襲われようと、運命難におちいろうと、心がこれを相手とせず、い
いかえるとそれに克とうともせず、また負けようとも思わず、超然として妟如 あんじょ たることを得る状態が、天風哲学の理想とする積極心=平安を確保しえた心的状態(絶対的の強さを持つ心)なのである。ところがこれを軽率に思考する人は、病難運命難に対して、心がこれを相手にせず、
またかかわり合いをつけず、超然として妟如たることという大切な点を、なんと無制限に広義に自分勝手な解釈をつけて、特に難運命難と いう消極的の出来事という厳格に制限されたことを無視して、なんでも かんでも、人生に生ずるいっさいの事柄にかかわり合わずに超然として たるのが安心状態だと独自な結論をする傾向がある。

箴言18
人を憎んだり恨んだり或は中傷したりする人は自分も又必ず他の人からそうされるという事を忘れてはならない

天風哲学は、縁というものを、原子や素粒子の結合同化と同一の 原理と原則の下に活動する、微妙なる宇宙エネルギーの特殊作用の一つ であると断定する。

そして同時に、人間の理智力で判断不可能の微妙なる自然作用に対し ては、すべからく無条件でこれを尊重して考量すべきであると強調する ものである。

昔から、一河の流れ、一樹の蔭、袖すり合うも、つまずく石も、これ ことごとく縁のはしという言葉のあるのも、けだし縁の尊重すべきもの、おろそかになすべからざることを形容したものであるといえる。

箴言19
内省検討という事は須らく すべからく  我執を離れて行うべし
そうしないと往々独善に陥る

箴言20
なんと いえど 何人 なんびと と雞も いえども 反省を人に強うる権利はない
反省という事は自分自身に粛やかに つつましやかに 為すべきものである

箴言21
病人や不運の人には恒に同情ある善導を行うべし
そもそも善導とはその人々を力強く勇気づけてやる事である

箴言22
理性や感情は理智に相対し理智は教養と経験に相対する。然し本心良心は徹頭徹尾絶対である

箴言23
他人の気持や言葉又は事件や病いという様なものに心を脅かされたり圧倒される人があるとしたら、心身相関の真理を正しく理解せぬ人である

中には、他人の言葉や行為に自分の心を影響させたり、同化させた りして、あるいは不愉快になったり、あるいは不機嫌になったりする人がある。

さらに笑うべき人になると、何事かを人に忠告したり、あるいは勧告したりしたとき、相手方の人が快くそれに応じてくれないような場合、やたらと胸くそを悪くする人がある。
もっと滑稽な人になると、人に親切にしてやって、相手がその親切に 感じないと、盛んに憤る人がある。
それからもっと愚にもつかぬ人もある。それは、自分の仕事や、または為すことなどが思い通りうまくいかないと、とてもがっかりしたり、 閉口たれて、憐れなほど意気を消沈するという人。

いずれにしても、人生こうした心構えでは、いくら学識があろうと、 金持ちであろうと、さらに社会的地位を持っておろうと、真理という ものは、事情に同情はしないのであるから、先述のとおりただいたずら に不幸な状態に自分を心ならずも導入して、結局は、往生のときを早め るだけのこと以外、何にも値打ちのあることは人生に招来されない。

わかりきったことであるが、人生には断然二ページはないのである。

したがって、自己の人生はあくまでも、自分自身がこれを完膚なきま まも 護りぬいていくべきである。
それがすなわち人生の尊厳にして最大なる義務である。
それにはいかなる瞬間にも、心身相関の現実を絶対に忘るるなかれである。

Heaven helps those who help themselves. (天は自ら助くる者を助く)

箴言24
油断をするといつしか「誓」の言葉を空にして活きて居る事があるから十分気をつけねばならない

箴言25
真善美という事は、人の心の何れに該当するものかというに、真と美とは本心に固有するもので、善とは良心の能動より発動する情緒である

箴言26
真理というものは、絶対的で不変であるが、倫理というものは、相対的で従つて時代と国情に依って変化し相違するものである

箴言27
人の世のために竭す つくす というのは私心なく誠心誠意人々の協同幸福のために努力することである

箴言28
真の平和とは理屈を超越してその心の中に「和合」の気持を有つ もつ 事である。
およそ感情で争う人位醜いものはない

万障万物のことごとくがその存在を表現するのは、このエネルギーの結合融和の結果で、また万物万象おの おのその形を異にし、そのところを定むるのもまたこのエネルギーの作 用で、
したがって哲学でいう「縁」なるものは、科学的にいえば、この アトミック・カルバスクルの微妙なユニフィケーション(統合)なので ある。
すなわち万象万物の根元をなすプランク常数Hというエネルギー の離合集散の調和現象に対する名称なのである。
現に、ヨガのウパニシャッドの「聖なる生命」の一節にも、 Ascending Series of Substance (実我の無限向上) という章句があるが、その中に、

There is a self that is of the essence of Matter...There is another inner self of Life that fills the other...There is another inner self of Mind.... There is another self of Truth-Knowledge.... There is another inner self of Bliss.

Taittiriya Upanishad
From "The Life Divine"

(われとは物の精・・・わが命の中には、他を満たすものひそめり…われに はわが心の奥にもう一つのわが心がある・・・われ はまたまことと智巧の泉がある…われには更に、至上至福に生きられ れがある)
「聖なる生命」より

というのがあるが、この詩句を充分に味わってみると、この「縁」=アトミック・カルパスクルの作用がいかに幽玄なものであるかが分明すると同時に、
「縁」なるもののまたいかに重大に考うべきで、決してな いがしろにすべからざる尊重すべきものであるかが、これまた分明するのである。
すなわち仏教者のいう一河の流、一樹の墓、つまずく石も縁のはし、まことにゆるがせにすべきでないということが分明する。

箴言29
本心良心に従うという事は、時とすると理性の判別と混同し易い故注意せねばならない

箴言30
暗示の分析は「感情」を離れて行はないと、兎角自分の都合のよいものだけを採用する事になる

箴言31
人生は現在只今を尊とく活きる事である。
それには理屈 なしに三勿三行 さんこつさんぎょう を専念厳守するべきである

「われらの誓詞 せいし」の誦句 しょうく の中にある、
怒らず
怖れず
悲しまず
というのが、三勿さんこつというので、
正直
親切
愉快
というのが三行なのである。
かるがゆえに、尊厳なる人生を確保するために、「随所に主となる」という理想的の人となるには、
理屈なしに三勿三行を厳格に実行することである。