すべきを捨てる インド瞑想紀行 小池龍之介

大乗仏教の修行僧、シャーンティデーヴァ、の著書

「入菩薩行論」

この本の底本が「菩薩を生きるー入菩薩行論」シャーンティデーヴ著、寺西のぶ子訳、長澤廣青監修、バベルプレス

 

[菩薩を生きる入菩薩行論』第5章 60~70]より

「心よ、どうしておまえはこの身体を守り、 自分のものだと思っているのか。 身体がおまえにどう役に立つというのか。

おまえと身体は、それぞれ別の存在だ。

木彫りの清潔な体を手に入れればよいではないか。

愚かな心よ

不浄を生む不潔な機械が、

どうして守るに値するのか。

心の想像力で

まず身体を覆う皮膚を取り除き、

次に智慧の刃で、

骨格から肉を引き剥がせ。

骨を一つひとつばらばらにして、

骨の髄まで調べたら、

疑問が浮かぶだろう。

本質はどこにあるのか。

どれほど探しても、

本質などないのに、

なにゆえおまえは、これほど執拗に、

今持てる身体を守るのか。

心よ、身体が排泄するものは食べられず、

その血もまた、おまえの飲み物ではない。

その内臓も、すするには向いていない。

では、おまえは、この身体をどうするつもりなのか。

とはいえ、維持していれば、 おまえがどう使うかにかかっている。

禿鷲や狐の餌にはなるだろう。

この人間の身体の価値は、

どれほどおまえが守って維持しても、

無慈悲な閻魔が奪って、

犬や鳥に投げ与えたら、

おまえに何ができるのか。

使用人は、働かなければ、 日用品も衣類も、もらえないというのに、 養われていながら、いずれはおまえを見捨てるこの身体を、 なにゆえおまえは、苦労して維持するのか。

この身体にはそれ相応の報酬を与え、 必ずおまえのために役立てよ。 完全な利益をもたらさないものに、 気前よくすべてを与えてはいけない。

おまえの身体は乗り物であると、 あちこちへ行くためのただの舟と、考えよ。

衆生に利益をもたらす、

すべての願いに応えるものとせよ。

自らを制し、

額にはいつも微笑をたたえよ。

険しく、怒りに歪んだ表情はやめ、 誰に対しても誠実な友人でいよ。」

 

[菩薩を生きる入菩薩行論』第八章 三九~四七]

「今生でも、転生の後でも、 欲望はあらゆる不幸のもと。 こんじょう 今生では、殺害、拘束、傷を、

転生の後では、地獄の苦や他の苦をもたらす。

さまざまな褒美で手なづけた男女の使いに、

娘との間を取り持たせ、

求愛のためには、

罪も、悪い評判が立つ行いも、

きわめて危険な行為も、 散財も、破産もいとわない。 すべては悦楽と至上の喜び、 この上なく心をとりこにする口づけのため。

だが、その相手は、自己も自主性も持たない、 骨の集まりにすぎない。 これが、欲望と性欲の唯一の対象なのか。 すべての苦しみや悲しみから、早く解脱せよ。

娘の顔を上に向けさせようと、どれほどの苦労をするのか。 娘の顔は慎ましくうつむき、

見覚えがあるにせよ、初めて見るにせよ、 その顔は、ずっとベールに隠されている。

あれほど思い焦がれた、その顔。

いよいよここに、禿鷲がベールを外した。

よく見えるように、禿鷲がベールを外した。

これはどうしたことか。もう逃げ出すというのか。

かつては嫉妬に駆られて守り、 他の男の目に触れぬようしたその顔、 今では墓場の鳥の餌となったその顔を、 強欲な者よ、守ってはどうだ。

よく見るがよい、この人間の肉の塊を。 今では死肉を食らう獣の餌だ。 他の生きものの糧を、 花輪や、白檀や、宝石で飾るというのか。

再び見るがよい、この骨の山を。

生気はなく、動きもしない。なぜ、それほど怯えるのか。 不思議な力に操られるように、この死体が歩き回っていたときは、 なぜ恐ろしくなかったのか。」