歴史とは靴である 磯田道史

学校では、地震が来たら高い所にすぐ行きなさいと言っているわけです。 犬には無理です。 地震の前から、犬や猫に、上へ上がれ!と言っておいてもたぶ ん、言葉が通じないから、上がってくれません。

人間にはそれができます。ですから歴史とは、世間を歩く際に、足を保護してくれ る靴といえます。

なにごとも歴史的な考えかたは大切になります。常日ごろから、時間と空間を飛び 越えて、似たようなことはないかなと考えながら暮らすと成功パターンも知れ、危険

が避けられ、成功しやすいのです。

そもそも、みなさんは志望校を決めるのに、赤本の合格体験記は読むでしょう。 あれこそ歴史です。

歴史に学んで受験対策をしているのです。前に受験した人の体験を自分に活かす歴

史的試みが、合格体験記を読むことです。

人それぞれが、自分の人生にしたがって情報を集めて、どうやっていくかを考える

というのは、けっこう大事なことです。

 

植林でスギやヒノキだけの林にすると、集中豪雨のように周囲の状況が変わったと きに一気に倒れてしまったりしてたいへんなことになります。

雑木林にはいろんな生きものが棲みついて多様な生物世界があります。ひょっとす その雑木林のなかからは新薬のもとになるふしぎな菌や微生物が採取できるかも

しれません。

学問も同じです。多様なものが存在している状態が、じつは歴史の教訓からしても 時代が変わるときには強いのです。一見いま流行っている学問が外国で引用されやす いから、そこにいっぱいおカネを投入すればいいってもんじゃない・・・・・・いい場合もあ

るんですけれど(笑)。

ただね、目先で役に立ちそうに見えるものは、すぐに役に立たなくなりもします。 一見ムダなものがあとで役に立つこともあります。まわり道もけっしてまわり道では ないということが大事だと思いますね。

教養とはなにかということを、ぼくはよく考えるのです。 「教養」にはいろいろな 定義があると思いますが、「ムダの積み重ね」じゃないでしょうか。「年季の入ったム ダ」と言ってもいい。

 

たとえばフランス語とか英語とか勉強してみたけど忘れましたということがあり

ます。

忘れるのにどうしてやるのだろうと思う人には、「バカを言っちゃいけない」と言 いたい。 一回覚えて忘れた状態を教養という、最初から触れたことがない人間とでは 雲泥のちがい・・と内田百閒は言いました。ぼくが大好きな随筆家です。

そうなんです、なんとなく触れたことがある感じが人間にとっては大事です。たと えば落語を聴いたって、ものの役には立ちそうにないけれど、人間とはどういうもの なのかを考えるときにきわめて大事です。バカバカしいような話のなかに本質があり ます。だからムダが大事にできるようでなければいけないと思いますね。

どういうわけか日本社会は一点集中、この道一筋になりやすいんです。 科学技術で もすぐ役に立つこと、戦争に必要と思われることにばかり集中しました。 それで造船 技術はすごく発展して戦艦大和までつくったのです。

飛行機でも、強い戦闘機をつくるんだとなったら、東京帝国大学第二工学部まで 設けて戦闘機をみんなで開発させたわけです。たしかに零戦はできました。すばらし い技術です。

 

つまりアメリカは、学問の総合力が日本よりもずっと上だった。強い戦闘機をつくろうと思ったら、兵器と全然関係のない合金をつくるような研究の技術も横にもっていないと絶対にダメなのです。

一回コテンパンに西洋に敗けているのに、まだ懲りず、こんどは人文系の学問はすぐ 役に立ちそうにないから規模を小さくしようとか、渡すおカネを削ろうという発想

がまかり通るのは、ぼくには理解できないのです。

本をたくさん読めば、そういうふうにはなりにくいのですけれど、想像力が欠如し ているのかもしれません。目先の国会での五分とか十分の答弁をやり過ごせたらいい やみたいなそんな発想、減点されないよう人の顔色をうかがう忖度が蔓延していると

まずいのです。そうならないためには、まずは教養です。 だからみなさんは、ほんものの教養人になってください。ぜひ、なる! そう思っていないと教養は身につきません、ホントに。 ぼくも学間にはげみ、世のなかのことを考えつづけていきたいと思っております。

ありがとうございました。